山上の説教の7章は「裁き」をテーマに主イエスの言葉が集められています。主イエスの言葉は鋭く、山上の説教に従い得ない自分の無力さに打ちひしがれます。そんな私たちが主イエスに従って行けるよう与えてくださったのが今回の聖句です。
根気よく祈り続けることが出来ない私たちの習性を知っておられる主は、
「求めよ」に重ねて「捜せ、門をたたけ」と言われ、手を変え品を変えてでも求め続ける大切さを説かれるのです。
ルカによる福音書の18章に「やもめと裁判官」の譬えがあります。一人のやもめが裁きを求めて昼も夜も叫び求めた結果、神を恐れず人を人と思わない裁判官を動かしたという話です。裁判官は「彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすに違いない」と言って、裁きを行う決心をしています。主イエスは「このやもめのようにシツコク、シツコク求めるのが良いキリスト者であり、神はこうしたシツコサを喜んでおられる」と言われます。
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです (12)」。パウロもフィリピの信徒への手紙の3章で、主を知り、主と共に歩み、主が与えてくださる祝福を味わうには、日々しつこく求め続けなければならないと言っています。主イエスが求められたのは、この「何とかして捕らえよう」というしつこさだと私は思います。
では何故そこまでしつこく求め続けるべきなのか?思いもよらない事件や事故に巻き込まれたとき、「自分には父なる神が付いているから大丈夫」と言い切れる信頼を神に持つためです。
ルカによる福音書11章に「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる(13)」とあります。その本質が愛であり聖である神は、神に背く私たちを救うために十字架上での御子の死によって罪を滅ぼされました。そして聖霊によって、イエス・キリストの死と復活に預かった私たちが神を「アッバ、父よ」と呼べる道へと招き入れてくださいました。そして神は全ての信仰者に聖霊を注ぎ、私たちを神に相応しく導き続けてくださるのです。
主イエスが「捜し求めよ」言われる内容とは、イエス・キリストによって与えられた新しい命を成長させ、充実させるために益になることです。「神の子としてイエス・キリストに似た存在になるために必要なら、何でも求めなさい。天の父は与えてくださる。教会を主の教会として建てるために労した先達たちに似る者になりたいとの願いにも主は応えてくださる。だから求め続け、門をたたき続けなさい」。主イエスは力強くそう言われています。
最も大切なことは、イエス・キリストに倣って真の神に従うことです。欠けだらけで神に従い切れない私たちだからこそ、命ある限りひたむきに追い求めたいと願います。